写真

乙女の色は移りゆく

破り跡

 百貨店から商店街へと向かう通りを駆けていた。
 曲がり角を曲がり切れずに、仕事帰りだろうサラリーマンにぶつかりそうになる。驚きよりも不信感の混じった視線が私を捉えたのは一瞬だった。
 肺から吐き出される息は白く、空気を吸い込むたびに喉が痛みを訴える。心臓がうるさいほど音を立てる。早く、早く、とでも言うように。
 きっとひどい靴擦れをしているに違いない。
『あのカフェで待ってる。』
 たった一文の、宛名もないメール。けれど、私の胸を高鳴らせるには十分過ぎるほどのもの。
 誰から送られてきたのか。あのカフェとはどこなのか。いや、そもそもこれは間違いメールではないのだろうか。
 そんなこと、私は露程も思わなかった。
 これはあの人から私への暗号。解読できれば私はあの人の元へとたどり着く。
 化粧も、洋服も、持ち物だって手を抜くものかと思った。クローゼットを漁り、丁寧に髪を巻き、纏め上げる。似合うね、と褒めてくれたパンプスを靴箱の奥から取り出した。
 その時、部屋の電話が鳴った。
 ミュージカルとして名高いその曲は、結末通りの物悲しさを含んでいて、好きなのよ、とあっけらかんと笑う母とはなかなか結び付きづらい。
 取れば待ち合わせには間に合わない。私の手はパンプスへと伸びる。でも、もし何か緊急事態なのだとしたら。
 息を潜めて待った。
 出ずに鳴り止めば大した用事ではなかったのだと思い込むことにして。
 1分、2分。まだ鳴り止まない。時計の針はゆっくり、ゆっくりと回り続ける。3分。音が途切れた。
 私は大きく息を吸い込んで、無意識に止めていた呼吸を繰り返した。
 電話を取らないという、ただそれだけの行為ですら、私は限りないほどの罪悪感に飲み込まれる。距離として離れられたとしても、未だ、針金よりよほど頑丈な糸で縛り付けられたままなのだ。
 鈴付きの鍵をハンドバックから取り出す手が震える。
 また音が鳴った。

 視界に飛び込んだのは等間隔に引かれた横線だった。
 枕代わりにしていた腕を解き、持ち上げて背伸びをする。下敷きにしていた日記帳は少しよれていた。机の端に置かれたデジタル時計は約束の時間の5分前を表示している。
 私はあの人に会えなかったのだ。
 息せき切って走った先に探し人はおらず、みっともなくカフェの入り口に崩れ落ちた私は、堪えようもなく流れる涙を拭うことができなくて、慌てて駆け寄ってきた店員を困惑させた。そして、その店員が差し出した手を見てさらに泣いた。
 そこにあったのはシルバーの小さな輪。色違いの物を私は持っていた。
 これは、どこに。
「先程までいらしたお客さまが、もしここに焦ってやってくるような女性がいたら、その人に渡してください、と。来なければ捨ててくれて構わない、とも仰っていました」
 あの人にとってこれは賭けだったのかもしれない。来るとも、来ないとも知れない女性を待ち続ける、滑稽で、独りよがりな時間に耐えられずに、あの人は負けたのだ。
 マフラーを手にして玄関へと急ぐ途中で、ふと思い出して部屋に戻った。
 日記帳に手をかける。埋め尽くすように書かれた左側のページを静かに破り、丸めてゴミ箱に捨てた。

14/11/27初稿
15/04/12改稿
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