写真

乙女の色は移りゆく

好きだと言って

プロローグ

 好きだ。
 彼が苦し気に絞り出した言葉に、私はただ呆然と彼の顎元に残る引きつれた傷を見やることしかできなかった。
 胸についた手が彼の呼吸に合わせてゆっくり上下する。吸って、吐いて、また吸い込んで。こぼれ落ちそうになるものを、唇を噛んで耐える。
 ふいにダッシュボード上に投げられていた私の携帯電話が震えた。メールの着信音が鳴り響く。私と彼の思い出の曲とも言うべきそれは、失った恋を唄ったもので、この瞬間にはいっそ滑稽なほど似合っていた。
 彼の腹の上から緩慢に身体を起こし、助手席に左手をついて携帯電話に手を伸ばす。ブルーのランプが規則的に点滅している。電源を落として乱雑にダッシュボードに放ると、フロントガラスから忍び込む夕闇に紛れて白い端末は色をなくした。
 背筋に薄っすらとかいた汗に不快感を覚えながら、恐る恐る彼に目を向ける。
 引き結んだ唇に、ひそめた眉。たれ目がちの目元から瞳を覗き込むと、今度こそまっすぐに目が合った。
 波。
 彼が私の名前を呼ぶ。その瞬間、握りしめたシャツに一粒の滴が落ちた。
 彼は怪訝そうな表情をして私の頬を撫でた。それでも、誤魔化すことを厭うように、滴は後から後から頬を濡らした。
 ようやく悟ったのだ。
 後に続くであろう疑問の問いかけを遮るために、私はそっと彼の唇に自分の唇を重ねた。それはとても冷たいキスだった。

 白いレースのフラットシューズの先端についた微かな汚れを見るともなしに見ていた私は、車内アナウンスの目的を告げる無機質な声に、他の乗客の後に続いた。
 アスファルトのホームへ降り立つと、この時期特有の湿りを帯びた日差しが容赦なく照りつける。車内の冷房は利き過ぎるほどだったのに、冷えていた身体からじわりと汗が浮いてくるのがわかって、右肩にかけたトートバッグからタオル地のハンカチを取り出した。
 イヤホンから流れるのは女性ヴォーカルの透き通った歌声。目を閉じてその柔らかで伸びのある声に耳を傾けていると、辺りがざわついていくのを肌で感じた。
 喧噪の先を盗み見ると、ビール缶を片手にした年寄りが「今時の高校生は」と数人の女子高生を怒鳴りつけているところだった。あまりの剣幕さに私自身が怒られた気分になりながら、かと言って口をはさむだけの勇気もなくて、結局は見ないふりをしてしまう。
 音楽の音量を一つだけ上げ、バッグからさっきまで読んでいた本を取り出した。数年前に単行本で出版されたもので、去年の暮れに書店で文庫版を見つけ、思わず手に取ったのだ。
 文字に目を落としながら、指先で表紙を何度も撫でる。
 この小説を最後に読んだとき、私は中学生だった。何の憂いもなく、好意を露わにできるほどには子供だった。だからこそ、物語だとわかってはいても憧れを抱かずにはいられなかった。
 澄んだ歌声に混じって聞こえていた怒声はいつの間にか消えていた。騒ぎの結末に興味を覚えて顔を上げた私は思わず息を呑んだ。
 黒のクロップドパンツに、ピンクの半袖シャツ。短めの髪からは額が覗いている。それは見間違えようもないくらい見知った顔だった。彼と最後に会ったとき、太陽はその姿を隠していて、蛍光灯の灯りと淡いピンクのカーディガンが私を包んだ感触だけが強く残っている。
 半ば泣きそうな気持ちになりながら、子供が歩き始めたときのようなおぼつかない足取りで、けれど躊躇いなく近付いて
「なんでここにいるの」
 と、仰ぎ見ながら尋ねた。
 その人は突然かけられた声に携帯の画面から訝しげに顔を上げ、私を視界に捉えて、驚いたように目を見開いた。顔、服、靴、と視線が動き、また服で止まる。
 私は変な服装をしていたかと、慌ててチェックのロングワンピースを見下ろした。耳にかけていた髪が重力に従ってばさりと落ち、私の視界を暗くする。青白の布地をぎゅっと握り締めた。
「なんでって。同じ方向なんだから俺が居たとしてもおかしくないだろ」
 私は、だって、と呟いた。
「平日の、それも日が明るい時間に衣笠と会うのが不思議で」
「それじゃ、俺が不審者みたいじゃないか」
 呆れたように彼は笑った。もともと細い目がさらに細くなる。その変わらない笑い方に少しだけ緊張がほぐれていくのがわかった。私もつられて笑いながら、大きく息を吐き出した。
「本城こそどこ行ってたん?」
「自動車の免許を取りに。教習所は5月の半ばに卒業してたんだけど、試験受けに行く時間がなかなか取れなくて」
 日付変更線と海峡、壮大な海。それなりに有名な場所に試験場はあった。
 遠いもんな、と彼が相槌を打つ。
 前にある工場から立ち上る煙がだんだんと薄くなって、空に溶けていく。今更ながらに並んで立っていることを思い出した。こんなふうに衣笠の隣に立つのは随分と久しぶりだった。
 その時、まもなく3番ホームに電車が参ります、とアナウンスが響いた。
 先に口を開いたのは私だった。
「本当は海が見たかったの」
 震えそうになる声を抑えて、静かに衣笠を見上げる。同じようにこちらを向いて口を開きかけていた彼の瞳が戸惑いに揺れた。
 鈍い色をした電車が大きな音を立ててホームに滑り込んでくる。生ぬるい風が私達の間を通り抜けた。ばらばらと人が降りてきて、改札口へと向かう階段を上がっていく。
 私はそっと彼の傍を離れ、逃げるように電車に乗り込んだ。
 もう潮風は吹いていなかった。

14/10/11初稿
20/05/05改稿
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