Hübsche Blume

erster teil

 彼女は可憐な花のように笑う人だった。時に白く、時に赤く、時に青く。それは他人に安心を与えるものであったり、見とれさせるものだったり、喜を誘うものだったり。
 彼女は哀しくても笑みを絶やさない人だった。けれど、彼女がそのような表情を見せたのは、ただの一度だけだった。
 僕は彼女を13の時から知っている。紺色のセーラー服を身にまとった背中はいつも凛と正しく伸びていて、2つ年の離れた僕にとって彼女は高嶺の花だった。彼女は中等部で目立つ存在であり、先輩、同輩、後輩を問わず、慕う人間は多かった。困ったような表情を垣間見せながらでも、彼女が他人に厳しく接していたところを僕は見たことがない。

 放課後は図書室で読書をすることが日課になった僕はある時、日当たりのない埃をかぶった図書室の隅で、彼女が身体を折りたたむようにして、書物に埋もれている姿を目撃した。そこは息をすることさえ躊躇う、まるで誰かが死んだ後を連想させる場所だった。彼女は色のない人形なのではないかと疑ってしまいそうになるほど、その風景に馴染んでいた。
「そこ、息苦しくないですか。カーテンも閉まっているし」
 勇気を振りしぼって声をかければ、彼女は本から顔を上げて、少し驚いたように目を見開いた。直後に柔らかな表情を見せて
「ここって人が来ないでしょ。ひと息つくには絶好の場所なの」
 秘密よ、と花のように微笑みながら、彼女は唇に人差し指を添えた。蠱惑的な彼女に僕は逆らう術を持たず、同じように人差し指を当てて同意の意味を示して見せた。
 彼女はほぼ毎日と言って過言ではないほど、図書室の隅で過ごしていた。普段の彼女は夏でも涼しげに長い黒髪をなびかせ、唇には弧を描いて、眼鏡の奥の瞳は何もかもを慈しむような柔らかさを湛えていた。けれど、図書室の彼女はそのすべてを削ぎ落としてきたかのようだった。今思えば、それは彼女のうちに抱える葛藤そのものだったのかもしれない。
 ねえ、知ってる?
 冷たい床にぺたりと崩し座った姿の彼女は、静かに読書をする時もあったけれど、僕を見つけるとよくこの問いかけを口にした。
 授業のこと、校内で流れている噂のこと、はたまた自分自身のこと。
 その問答は彼女が隣接された高等部に上がっても続けられた。放課後が訪れる度、中等部の図書室の隅で僕と彼女は人目を忍んで時間が移り変わっていくのを共にした。
 いつのまにか僕の身長は彼女をとうに通り過ぎていた。

 僕と彼女は2つ年の差があるから、高等部での彼女の姿を直接的には知らない。風の噂では中等部と変わらず、皆の注目を浴び続ける存在だったようだが、そこに恋人という欠片はあったのだろうか。僕は柄にもない気持ちを抱えていた。彼女は問いかけはするものの、僕が質問をすると毎回上手くはぐらかすのだ。
 月日が流れるのは実に早く、僕は高等部へと進学した。再び同じ校舎での生活を送ることになった僕は、彼女が潔癖なまでの対人性を身につけたことに気がついた。それはまるで図書室の彼女そっくりで、他を寄せつけない冷淡さが彼女の陰に潜んでいた。ただ、周りの誰として彼女の変化には気づかないようだった。当たり前だ、図書室の彼女を目にしているのは僕だけなのだから。そして、僕と彼女は陽のあたる場所で話したことはない。
「空気が変わりましたね。中等部の校舎内で皆の注目を浴びていた貴女は今よりもっと他人に上手く接していました」
 図書室の彼女に僕は話しかけた。中等部の図書室は年月が経過しても埃をかぶり続けたままだ。
「私も若かったということよ。昔の私は誰にでも優しくすることで自分も救われると思っていたの」
 彼女はひと息を置いて
「だけど、違った。救われることはない世界で、私はもうすぐどこにでもない場所に行くしかなくなる」
 その微笑みは僕が知る中で一番美しかった。しかし、同時に迷子の子供を連想させるような儚い表情だった。
 僕は身体が動くに任せて、彼女を自分の身体で覆った。想像していたよりも遥かにすらりとした身体、指通りのよい髪、そこはかとなく漂う甘い匂い。現実から切り離された場所で僕は彼女に触れた。彼女は僕を拒絶しなかった。
 止まった時間に息を詰めていた僕の頬を彼女の左手が形を確かめるように触れた。ひやりと冷たい手に首をすくめると、腕の中の彼女がそっと上を向いた。感触は一瞬で、ただ僕は目を開いたまま、彼女が事を終えるのを見届けた。薄く閉じたまぶたから瞳を覗かせた彼女はいつもの可憐な笑顔を浮かべた。
 ごめんなさい。
 彼女の微笑みと放たれた言葉に僕は何も言うことができなかった。けれど、ひとつだけ確信したことがあった。はぐらかし続けた本心をさらけ出した彼女はもうこの図書室へ足を向けることはないだろうと。

 桜の蕾が開く頃、彼女は他の大勢の生徒と共に高等部を卒業した。壇上で答辞の言葉を発する彼女は花のような笑みを絶やさず、その声は凛と澄んで、セーラー服を着た背中はまっすぐに伸びていた。
 その後の彼女の足取りを僕は知らない。16の僕に彼女は一生消えない傷を残して去ってしまった。

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