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乙女の色は移りゆく

好きだと言って

第2話

 やましいことがあるわけではないのに、母の前に出ると私は膝を抱えて座り込みたくなってしまう。それは後ろめたさや後悔はもちろんだけれど、母の容赦ない言葉の数々のせいでもあった。
「私、大学もバイトも9月で辞めるからね」
 台所に立ち、夕飯の準備をしている母の背中に向かって、私は恐る恐る告げた。
 母は玉ねぎをむく手を止めずに尋ねてきた。
「辞めてどうするの」
「こっちで就職先探す」
 ふーん、と同意を示すでもなく、まな板を取り出して玉ねぎを刻み始める。振り向かない背中は頑なで私にやるせなさを募らせるには十二分だった。
 しばらく言葉を失くして立ち尽くしていると
「家からは出さんから。それはよく覚えときな」
 くぎを刺すように母は言い、邪魔になるからと追い払われた。
 のろのろと階段を上り、部屋に戻ってベットに倒れこむ。
『家から出さない』は彼女の口癖で、事あるごとに同様の意味を含んだ台詞が私に投げかけられた。今の私はそれに抗う術を持たず、母の許可した範囲内でしか動くことができない。
 これでも外出を認められる程度には改善されたのだ。誰と、どこで、何をするのかさえ話せば。
 机に先日の同窓会のために棚から出した卒業アルバムがあることを思い出して、起き上がった。開かれたままのページにはクラスの集合写真。美しい朝霧が撮れると噂高いその場所まで山道を歩いて登ったのは鮮明な記憶だ。

 高校の最寄り駅の一つ手前、峠を越えれば建物が見える、そんな場所から私は毎朝通学していた。利用者の少ない駅に駅員は居らず、改札というには程遠い木柵の向こうに線路はあった。
 滑り込んできた鈍色の電車は吐き出すものをほとんど持たず、ただ息をするように新緑の色をまとった子供達を飲み込んでいく。
 私は人との付き合いに疲れ切っていた。コンクールを終えて新体制となった部活内での権力争い。仲が良いと思っていた友人との微かで確かな溝。授業を休んで保健室に入り浸るようになったのはその頃だったと思う。
 落ち葉が舞い散る商店街を足早に歩くのは特進の生徒が多くを占めていて、その後をそっと、後をつけるように歩く私はなんだかひどく惨めな気分だった。ブレザーのポケットの中で手を握りしめて感情の波が通り過ぎるのに耐えた。
 並んで三校舎あるうちの真ん中が普通科の校舎で、3階の北階段から教室を三つ通り過ぎた先が私の在籍するクラスだった。後ろ側に当たる教室の引き戸を開くと、レールが錆びた音を派手に立てた。耳障りな、それでいて聞き慣れたと言っていい音の中に、ぎき、という異質な音が混じった。私は慌てて教室内に目を向けた。
 教壇から程近く、私の席からは斜め前に当たる席に一人の男子生徒が腰を下ろしていた。彼は目を細め、眉を立てて、こちらを凝視していた。体格の良い身体に、四角張った顔立ち。髪は全体的に短く揃えてあり、前髪から額が覗いている。
「おはよう」
 彼はじっと睨むような目つきのまま、口を開いた。少し高めのその声に、入り口に突っ立った状態だった私は引き戸を閉めて、おはよう、と小さく返した。
 それは私が衣笠をクラスメイトから一人の男子生徒として認識した日だった。

 あの時、睨まれて怖かったんだから、と文句を言ったことがある。衣笠は「眼鏡忘れたら何も見えないんだよ」と言い返しながらも、ごめん、と謝ってくれた。
 生徒会に所属していて、その仕事のために早く登校していたという彼は8時前になると、教室を出ていった。普通科の生徒は登校するのがぎりぎりな人間が多く、自然と彼が仕事に行くまでの時間は二人きりだった。
 話すのはもっぱら衣笠で私は聞き役に回ることが多かった。朝の電車の異常な混み具合、部活を辞めたこと、特進で生徒会に所属している奥平という男子生徒のこと。彼の口からは私には想像もできないような出来事がたくさん飛び出した。話すことが得意な衣笠に比べて、私は自分のことを上手く言葉にすることが苦手だったけれど、彼は根気強く私の話を聞いてくれた。友人との誤解という溝を飛び越えられたのは衣笠の力もあったと思う。だから、私は衣笠の傍にいるときは自然体でいられた。
 衣笠が話す話題で一番多かったのは、彼が想いを寄せる女子生徒についてだった。その頃の彼が口にするのは『朝野さん』とのエピソードが大半を占めていた。彼曰く、その『朝野さん』には他に好きな人がいて、それでも自分は彼女のことが好きなのだ、と。
 一途に朝野という女子生徒を想い続ける衣笠に対して、私は苦しいような、やるせないような気持ちを抱いた。それが『私を見てほしい』ということだと指摘したのは、共通の友人となっていた奥平くんだった。否定しようとすると、奥平くんは「本城さんは純粋なんだね。もし僕が君のことを好きだと言ったら、どんな反応をしてくれるのか、少し興味が出たよ」と冗談とも本気とも言えない口調ではぐらかした。
 同じ頃、喫煙で謹慎処分を受けて部活動の活動停止となった野球部員が早く教室を訪れるようになった。親しく話す私達を彼らはどう思ったのか。すぐに私達二人が付き合っているという噂がまことしやかに学校中に流れた。私は慌てて噂を打ち消そうとしたが、衣笠は「ほっとけば勝手に消える」とあまり気にしていないようだった。
 テスト勉強がひと段落した夜中、携帯のランプがメールの着信を告げたとき、私の胸はずきりと痛んだ。
『俺、やっぱり覚悟決めるわ』
 彼の想いが届いてほしい、でも届いてほしくない。
 相反する思いに罪悪感を抱きながら、私はいつも通りの生活を続けた。教室で出迎えてくれる衣笠も、至る所で遭遇する奥平くんも普段と変わらなかった。
 その日は違った。
 やつれた顔をした衣笠から『先輩とは付き合えません』という彼女の返事を聞いた。彼は「振られたんだ」と私の目から視線を逸らすように告げた。
 しばらく静寂が教室内を駆け巡った。
「噂を耳にしたらしい」
 と呟かれたとき、背筋が凍るかと思った。いや、凍ってしまって私は身動き一つ、彼を見ることすらできなかった。私達は適切な距離を保っていたはずだった。けれど、周りからはそう見えず、彼が一途に想っていた彼女も私たちの関係をそう判断したのだ。
 衣笠は憔悴しきっていたが、「お前のせいじゃない」と言ってくれた。私は胸の内に秘めた想いと申し訳なさでいたたまれない気持ちだった。大切な人を傷つけてしまった自分が許せなかった。
 そして、私はそれから衣笠と二人きりで会話することを避け、クラスメイトや、友人達が混じった中で彼と交流することを決め、それを卒業まで貫き通したのだった。

 自宅から近いという理由で受験した大学の高原にぽつんと佇むキャンパスとバイト先の往復を繰り返して、四季が過ぎ、また夏が過ぎ去ろうとした頃、唐突に携帯が懐かしい着信音を奏でた。
『二人だけで会えないか?』
 まるで衣笠を遠ざけていたことに気付かれていたような文面に私は驚いた。同時に彼の顔が見れる、ただそれだけで高揚を抑えきれない自分に呆れた。
 指定されたのは衣笠の地元の小学校だった。月明りの下に学校までの坂道を登っていくと、彼は色褪せたブランコに腰かけて私を待っていた。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
 心臓は早鐘を打ち続けていたが、何気ない風を装って声をかけた。
 衣笠は、おう、と相槌を打って、地面を見るともなしに見ていた瞳を私に向けた。少し精悍さを増した顔立ちに、彼を形作っていた眼鏡が消えていた。
「眼鏡、どうしたの?」
「コンタクトにした。眼鏡は二度も割っちまったからな、お袋に小言言われて」
 久々だからだろうか、会話も長くは続かず、途切れてしまうと気まずさが辺りを漂った。衣笠は話すことを躊躇っているそぶりを見せた。
 私は空いていたブランコには腰かけずに、彼の背面のフェンス柵にしがみつき、高台から崖下を見下ろした。少し離れた場所にある商店街は納涼祭の灯りでそこだけが真昼のような明るさだった。浴衣を着ている人も多く、子供達のにぎやかな声が響いて、夏の終わりを実感させられた。
「何か理由があって呼び出したんでしょ。黙ってるとわからないよ」
 崖下の勢いに押されるように私は衣笠を急き立てた。今の私に彼との間の沈黙は毒も同然だった。
 街灯と月明りだけでも衣笠の顔色が優れないことは見て取れていた。
 だんまりを決め込んだ彼と向き合うことを決めて、深呼吸を二度繰り返してから、ブランコの正面に回り込み、しゃがみ込んだ。彼の瞳をまっすぐ覗き込む。
 とうとう観念したように衣笠は話し出した。
「親父とお袋がついに離婚したんだ。今までも不穏なことはあったけど、それでもそこまで深刻な事態にはならなかった。でも、今年の春にじいちゃんが死んでから、二人とも気が狂ったみたいに喧嘩ばかりするようになって、親父は離婚届を置いて出ていったんだ」
 高校時代から彼の両親の仲が芳しくないことは彼自身の口からたびたび聞いていた。彼がそれに心を痛めていることも。
 私は一気に冷静さを取り戻し、沈痛な面持ちをしている衣笠の大きくて分厚い左手を自分の手で包み込んだ。夏の夜の生ぬるい空気より彼の手はよほど冷たいように感じた。
 何も声にすることができず、それ以上、動くこともできなかった。
 私は衣笠の傷に触れることを恐れ、また彼もそれを望まなかったから。

 その年の秋は私が二十歳になる年だった。
 平日で大事な講義のある前日、いきなりかかってきた電話の主は「明日は何が何でも俺に一日付き合え」と偉そうに時間と合流場所だけを伝えて、唐突に電話を切った。私が何かの詐欺に遭遇したような不可思議な気持ちになったのは当然だと思う。
 翌朝、電車を乗り継ぎ、大人しく指定された場所である駅の構内にある書店で待っていると
「服装がいつもと違い過ぎて見過ごすところだった」
 平然と失礼な口を叩きながら衣笠が隣に立った。
「私だってワンピースくらい着るわよ」
 電話がかかってから悩み抜いて決めたのは、レース地になっているAラインの白いワンピースだった。背中は同色のリボンで編み上げられ、結ぶ仕様になっている。
 一方の衣笠はと言えば、首元の大きく開いたYシャツに薄いピンクのカーディガンという心なしか過去に見た私服姿よりも幾分かっちりとした服装をしていた。
 私が眺めているのに気づいてもいない彼は腕時計を見て、乗り遅れる、と私の左手首を躊躇いもなく掴んだ。一瞬、怯んで引き戻そうとしたけれど、彼は意に介さず、人の波を速足で通り抜け、ホームに停車していた快速へ私と自分自身を乗り込ませた。
 弾んだ息を整えながら恨みがましく衣笠を見上げる。
「俺だって焦ってたんだから仕方ないだろ」
 とぶっきらぼうに彼は言い放って、ほとんど空いていた座席に腰かけた。私も彼に従って、というより、離されない彼の右手が私を座席へ誘った。
 流れていく景色をそれとなく眺める。高層ビルに垂れ下がっている派手な広告。道路は整然として、歩道には等間隔に木が植えられている。急にトンネルに入って、見えるのは自分の口を少し開いた間抜けそうな顔になった。
 慌てて唇を引き結んで、衣笠をそっと窺うと、彼は片手で器用に携帯をいじっていた。強引ではない、私の左手首を覆う右手。微かな温度は気恥ずかしさを生み、並んで座っているにもかかわらず、私は衣笠に話しかけることができなかった。
 そのまま手を引かれて快速を下り、バスへと乗り換える。碁盤のように整った街並みが目に映る。ほとんど一区画ごとに停車することを繰り返す、大きな箱。人の波に襲われてよろけそうになった私の腰を彼は空いているほうの手で支えた。そして、すぐに何事もなかったようにその手は元の位置へと戻っていった。動揺する暇さえ与えずに。
「着いた」
 降り立った先には公園と思しき広場が見えて、衣笠の思惑がわからない私は手を引かれるまま、彼に連れられて歩いた。そのうち、グレーの真新しそうな建物が姿を現した。看板にカラフルな色で『水族館へようこそ!』と矢印で建物内部への案内が書かれていた。
「水族館?」
 疑問を口にすると、ようやく衣笠が沈黙を解いた。
「ここ、新しくオープンした場所らしい。大学の友達から聞いて、今日、お前を連れてくるならここだと思った」
 彼の言葉は私をさらに混乱に陥れた。どうして私を連れてきたのか、それは今日でなくてはならなかったのか。尋ねても衣笠が答えないことを私は知っている。
 いつの間にか左手首は解放されていた。それを寂しいと思う資格は私にない。立ち止まって自分の渦の中に入り込んでしまっていた私を衣笠の声が揺さぶった。
「お前な、手を離した途端にそれかよ。小学生の迷子でもあるまいし」
 瞬間、少し硬さを持った大きな手が私の手を絡めとった。
 え、と動揺した声を耳にした衣笠は、お前がどんくさいのが悪いんだからな、と繋いだ右手に力を込めた。衣服越しではない、直接的な温かさ。ゆっくりと確かめるように握り返すと、衣笠は満足したように足を動かした。
 適度な温度に保たれた水族館の内部は、見所の一つとされているオオサンショウウオの感触を模したもの、水槽の中を泳ぎ回るオットセイやアザラシ、映画の主人公としても有名なクマノミの色鮮やかな洞窟など、時間を忘れて歩き回ってしまう生き物達でいっぱいだった。
 連れられていた私が衣笠の手を引いて歩き回っていることに気付いたのは、彼にも私が見ている景色と同じものを見てほしくて振り向いたときだった。
 普段の彼の表情にはない柔らかな笑顔。胸を締めつけられるような切なさが身体中を駆け巡った。見なかった振りをするのはあまりにも残酷だった。
 その時、場内のアナウンスがイルカのパフォーマンスが始まることを告げた。
「イルカのショーだって。衣笠、観たい?」
 誤魔化すように尋ねると、先程の表情がかき消されたように不機嫌そうな顔をした衣笠が
「この時間だと人が多いんじゃないか。今から行ってもいい席は取られているぞ」
 イルカスタジアムと書かれた看板を目指して歩く速度を速めた。素直に観たいって言えばいいのに、と内心思いながら、再び引かれる身となったことに安堵を覚えた。
 衣笠が言った通り、端の席しか残っていなかったけれど、私達は文句を言うことなく空いていた席に座った。躍動的な姿を惜しげもなく晒す4頭のイルカと残光を浴びた公園の紅葉はとても美しかった。夢中になって見ていると、終了を告げる係員の声が遠くに聞こえた。
 そろそろ帰るか。
 衣笠がぽつりと呟いた言葉に私は小さく頷いた。
 てっきり待ち合わせ場所の駅で別れるのだと思っていた私は、衣笠が平然と座席に座り続けていることに驚いた。もう繋がれていない左手で彼の服を軽く引っ張り
「衣笠、さっきの駅でしょ。なんで降りなかったの」
 と問いかけた。
「地元に帰ったら真っ暗じゃないか。俺も今日は実家に泊まるつもりでいるから気にするな」
 あっさりとした返答だった。心配されているのかと思うと落ち着かず、私はそわそわした気持ちを抱いたまま、地元行きの電車に乗ることになった。
 最寄り駅はすでに闇に姿を変えており、消えそうな蛍光灯の灯りだけが私達を照らしていた。
「講義抜けて平気だった?」
「俺は大丈夫だ。お前こそ突然で困ったんじゃないか」
 図星をさされて返事をすることができなかった私を見て、衣笠が含み笑いをした。灯りを背に受けた彼の表情はいつにも増して読みにくかった。
「二十歳の誕生日くらい祝ってもバチは当たらないさ」
 いきなり顔を上げた私に衣笠は
「俺が知らないとでも思ってたんだな。知ってるよ、高校のとき、誕生日を教えてくれたのはお前だった」
 確かめるように放たれた言葉に私は衣笠の今日の行動の意味を知った。彼は憶えてくれていたのだ、たった一度話題にした出来事を。それだけで私は幸せだった。
 ありがとう。
 こぼれないように必死で抑えた涙は姿を隠し、私は彼に向って微笑んで見せた。歪な笑い方になったことを気付かないでほしいと願いながら、感謝を伝えた。
 腕を引かれた、と感じたときには、私は彼の両腕にすっぽりと覆われていた。外気の冷たさを奪っていくような彼の熱がこれは現実だと訴える。淡いピンクのカーディガンはどこまでも柔らかかった。
「誕生日、おめでとう」
 頭上から降ってきた声と同時に引き寄せられる。彼の熱と私の熱が溶け合っていくような錯覚を覚えた。混じり合って一つになってしまえばいいと強く思った。

 初詣の約束をしたのは私からで、快く承諾の返事を寄越した彼に対して、私は浮かれていたのだと後になって思い知った。
 着ていく服に頭を悩ませ、母への言い訳を用意して。
 けれど、それらはすべて無駄になってしまった。年が明ける2日前、彼から行くことができなくなったと連絡があったのだ。
『理由は話せない』
 頑なに行けなくなったと言い張る衣笠は私を拒絶しているようだった。訳もわからずに突っ撥ねられたことは、自分から衣笠と距離を置くと決めたときより、遥かに辛かった。
 私はただ一度だけ彼の温もりを享受した夜を思い出しては、あの夜、彼がくれたストラップを付けた携帯を握り締めて、涙を流した。
 それから私が彼と連絡を取ったことは二度となかった。あの夏のホームで再会するまでは。

 再就職先として私が選んだのは、自宅から車で5分程度という近さの福祉施設の事務職だった。
 田舎特有のゆったりとした雰囲気にすぐに私は馴染んだ。男女が半々を占める職場では、母親と同年代の女性が多かった。家にこもりっきりの母親とは違う、働く女性の力強さや生命力に圧倒されながらも、新しい仕事への意欲が湧き上がっていくのを感じた。

18/07/25初稿
18/08/11改稿
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