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乙女の色は移りゆく

好きだと言って

第3話

 衣笠から届くメールに私が返信するようになったのは同窓会が終わった後だった。くだらないと言っても差し支えない内容が大半を占める文章を読むたび、彼に抱き締められた夜の匂いが鼻先を掠めて、彼の意図することが理解できない私をさらに混乱させるのだった。
 仕事終わりの車中で携帯の画面を確認すると、メールの着信があった。いつもの如く、天気の話から始まり、内定先の話、奏愛の喫茶店の新作の話と続く。その中に何の脈絡もなく、『よかったら映画にでも行かんか?』と書かれていたことに気がついたのは、もう一度読み返して返信しようとしたときだった。
 冗談に違いないと信じた私は『構わないけど、面白くないのは却下ね』と打ち返した。
 数分後、最寄駅を待ち合わせ場所に指定した返信があって、ようやく彼は私を本気で誘っていたのだと、自分の間違いを認めることになった。

 薄紅色の軽自動車が駅前のロータリーに滑り込む。目の前で停車した車に戸惑っていると、助手席のドアが内側から開いて、衣笠が顔を覗かせた。
「乗って」
 闇に脅かされた車内。二人分の潜めた呼吸。まっすぐに私を見る瞳。
 私のために空けられた席に座ることを躊躇って、一歩退いたことを彼に気付かれたくはなかった。
 衣笠は少し怪訝な表情になって
「後部座席のほうがよかったら、そっちも空いてるから座れ」
 と、命令口調ぎみに私を急かした。
 後部座席の窓ガラスに映る自分がほっとした顔をしているのを見ないようにして車に乗り込んだ。ふわりと香った衣笠愛用の香水が私を包む。すぐに助手席に座れなかったことを後悔したけれど、同時に安堵の息を吐いたのも事実だった。
 しばらくして車は一般道を走り出した。ギアを入れ替える素早い動作。停止線の前でゆっくりと踏まれるブレーキ。アクセルはあまり踏み込まない。衣笠の運転は彼の気性と正反対の穏やかさを保っていて、私は彼の新たな一面を発見することになった。
 山沿いを進む車の中はラジオから流れる洋楽がはっきりと聞こえるくらい静かだった。その静けさを私は恐ろしいとも思わず、怯えを抱くこともなかった。
 映画館のある建物に併設された駐車場に着く頃には私の緊張は解れて、衣笠と近況を報告しあえるまでに戻っていた。
「映画、何か観たいものあるか?」
 アクション、ミステリー、恋愛、アニメーション。館内の上映一覧を眺めながら、衣笠が尋ねてきた。
「衣笠こそ、観たい映画でもあったんじゃないの」
 訊き返すと
「俺は別に何観ても一緒だから。本城は映画、好きだろ」
 当然のように告げられて、私は彼に映画鑑賞が趣味だと言った覚えがあったか記憶から引きずり出そうとしたが、いくつか出てきたのは関係ない話をしたことばかりだった。
 ミステリー小説が原作だという映画を選択すると、飲み物とポップコーンが必要だと言い張る衣笠に習って、アイスコーヒーを購入した。
 ひんやりとした空気が漂う空間に足を踏み入れた途端、あの人と観たレイトショーを思い出した。その後に行われた行為のすべても。
 肌が泡立つのを感じて衣笠を引き留めようとした。けれど、彼は先に行ってしまっていて、私は奥歯を噛み締めて彼の後を追った。
 刻々と進むストーリーは原作に興味がなかった私をいとも簡単に虜にした。氷の溶けかかったアイスコーヒーは薄く、ほとんど味がしなかった。隣で画面を見ながら黙々とキャラメル味のポップコーンを食べ続けている衣笠が、時折、暗闇に紛れてこちらに視線を寄越していることを不思議に思いながら、夢中になってスクリーンに映し出される物語を眺めた。
「当たりだったな」
「うん、俳優さんも実力派揃いだったし、原作読んでなくてもストーリーがすんなり入ってきたのがよかった」
 映画館から出ると、少し冷たい風が頬を撫でた。秋の匂いを感じつつ、二人であてもなく色付き始めた並木道を歩く。
「なあ、聞いていいか。お前の前付き合ってた奴のこと」
 と彼が口を開いたのは並木道を抜けて、小さな公園に足を踏み入れたときだった。
 反射的に衣笠を見上げると、彼は近くのベンチを指差して、座ってろ、と言い、自動販売機へ向かっていった。
 色褪せたベンチに腰掛けて、履いていたショートブーツで地面を叩く。かつん、とヒールが鳴る音と、戻ってきた衣笠が缶コーヒーを差し出す手が見えた。ありがたく頂戴して、彼が隣に腰を落ち着けるのを見届ける。
「なんて言ったらいいのかな。コンサートに行くために知らない土地で迷子になっていた私を助けてくれたの。見た目は少し強面だった。顎のところに引き攣れた傷があって、私は彼を怖いと思った。でも、偶然にも同じ場所に行くことが判明して、案内してもらっているうちに、それは誤解だとわかったのよ」
 温かい缶のプルタブを引っ張って、中身を一口含む。衣笠は何も言わずに私の言葉に耳を傾けている。
「連絡先を交換して、いろんな所に一緒に行った。結婚を前提にと告白されたときは嬉しかったわ。私もあの人も口下手だったから、あまり会話という会話はなかったけど、あの人はいつも行動で示してくれてた」
 過去を思い出して、そこで止まった声に衣笠が疑問をぶつけた。
「じゃあ、なんで別れたんだ?」
「それは」
 直球の問いかけに私は答えることができなかった。
「ああ、いい。答えたくないなら答えなくて。俺が聞きたかっただけだから」
 手で静止するような仕草をして、衣笠は話の間に飲み切った缶をベンチに置いた。飲んでしまえよ、と声をかけられて、私は缶を両手で包んで握ったままだったことに気がついた。
 人工的な甘さのするコーヒーを流し込むと、胃が悲鳴をあげるように痛んだ。
 一度もね。
「あの人は私に一度も好きだって言ってくれなかったの」
 衣笠との間にある空間に視線を落とす。ペンキの剥げた場所から木目が覗いていた。
 彼は私の手から空になった缶を取り上げると、自分の分と一緒に缶を捨てに行った。そして、何事もなかったかのように言った。
「冷えただろう。おばさんに連絡入れとけよ」
 衣笠は私の母親が過保護なのを知っている。だから、電話したのか、メールを入れたのか、と私が後で責められることがないよう取り計らってくれる。
 立ち上がろうとしたとき、差し伸べられた手に手を取られた。衣笠は私に背を向けると、無言で歩き出した。

 黄色い看板がトレードマークの雑貨店。本屋の入り口には文庫本が山積みになっている。
 手を握られて歩き回るのは何年か前に水族館へ行ったとき以来だ。硬くて乾いた手は柔らかく私の手を握っている。握り返すと、安心感がとめどなく私を満たした。
 こっちだ、と連れて行かれたのは有名なブランドの宝石店だった。一瞬、動揺した私は立ち止まったけれど、衣笠が手を離さないまま、店内に入っていったので、大人しく従わざるおえなかった。
 煌びやかで磨き抜かれた石達はショーケースに収まっていても、輝きを見失うことはなかった。
 店員と話をしていた衣笠はショーケースの一点を指差して、商品を取り出させた。橙褐色の澄んだ石は雫型をしていて、多方面からの光を反射している。
「着けてみろよ」
 離した手で私の髪を優しく耳にかけたかと思うと、彼は私が着けていたピアスをいとも簡単に外した。雫型のピアスが私の耳たぶに取り付けられる。反対側も同じように着けた彼は一歩下がって唇に弧を描いた。
 呆然とされるがままになっていた私は大慌てで衣笠に詰め寄った。
「だ、駄目だよ。こんな高いもの、買えない」
「誰がお前に買わせるって言った?俺が払うんだから本城は黙ってろ」
「そんなの尚更のこと悪くて受け取れない、です」
 必死になって止めようとする私と反対に衣笠は
「せっかく似合うものがあるのに、買わないとか、お前、一期一会を知らないな」
 妙に自信に満ち溢れた声で言ってのけると、そのまま素早く会計を済ましてしまった。
「ちなみにその石の名前、わかるか」
「トパーズでしょ。誕生石の存在を衣笠が知ってたことに驚いた」
 宝石店を出たところで尋ねられて、ようやく彼がプレゼントしてくれたことに気付いた私は、ありがとう、とお礼を言った。
 身動きするたびに耳元から首筋をひやりとした感覚が通り抜けていくのは爽快だった。

18/08/14初稿
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